江戸享保期より文政期にかけて、小石川伝通院前表町に、辰巳屋惣兵衛という者あり。祭りと舞踊を好み、ついに、老若男女大いに興ずる狂言神楽を創り出す。
江戸の文人太田蜀山人は、その趣を「お祭りと神楽の堂に辰巳屋の枯木娘や花咲爺」と詠めり。
辰巳屋惣兵衛、狂言神楽の利益に因り、きわめて長寿なり。文政四年十月二十八日、八十九歳の天寿を完うして往けり。
ときに、江戸市民は、惣兵衛の人柄を惜しみ功績を称えて、祭りの賑いを以って葬送せり。
今般、辰巳屋惣兵衛の狂言神楽に表出せる舞踊の本旨を再興せむという発意あり。すなわち万人の親しく習得し得る大衆舞踊を興起し、その広がりをもって大衆の幸福と健康を増進せむという願いなり。
ここに、舞踊辰巳流を復興し、宇井正子・宇井令子をもって三代家元に推挙し、初世辰巳寿昌・初世辰巳寿穂を名乗らしめ、舞踊本然の発展を期すものなり。
昭和五十七年一月十五日
発起人
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原田 政治
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後見人
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宮崎 哲夫
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秦 輝次
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指 導
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高橋 秀雄
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