ご挨拶 辰巳流のご紹介

流祖辰巳屋惣兵衛について
辰巳流継承の経緯
辰巳流の踊りの特色
舞踊会はお祭り








辰巳流の流祖、辰巳屋惣兵衛(本名、平井辰五郎)は江戸中期の遊侠人で享保18年(1733年)に生まれました。江戸小石川伝通院門前に居住し、福聚院門前で茶漬け屋と田楽豆腐屋を開業しましたが、店は家人に任せ、もっぱら遊侠の生活にふけっていました。

惣兵衛は生来、踊りが好きで、若い頃から暇をみては、踊りに時を費やしました。特に踊りの名声を高めたのは、女装して面白おかしい所作をとりいれてからでした。

天明8年(1788年)には、仮面をつけて踊る「狂言神楽」を創案し、庶民の大喝采を博しました。山王権現社、神田明神社のほか江戸市中の各神社の祭礼での活躍は言うにおよばず、大名邸での宴会の余興にも招かれるようになりました。そのような時「自分は遊戯のために踊るのであり利欲のためではない」といって金銭を受け取らなかったといわれています。

日本舞踊の世界において各振付師が世上に沙汰されはじめたのは、江戸の宝暦から寛政そして文化・文政期にかけてです。「二人椀久」を振り付けた二世藤間勘兵衛や「保名」や「藤娘」を振り付けた初世、藤間勘十郎が活躍していた同時期に、町の人々の心を掴んでいたのが、辰巳屋惣兵衛の踊りでございました。

当時は、天明の大飢饉(1783〜1787年)によって、世の中が乱れ、人々の心が暗く閉ざされてしまった時を乗り越えて、元気を取り戻そうとする頃でした。特に江戸は将軍のお膝元であり、神田明神の神田祭りは天下祭りとも言われ、五穀豊穣、国家鎮護を祈り、将軍だけでなく、世子、奥方、旗本、諸大名、果ては奥女中までが見物して共に盛り上がったと文献にも残っています。神田祭りの日に、山車や神輿が賑やかに練り歩き、江戸城中にまで繰り込むのは壮観であったことでしょう。祭礼の行列の山車に続く踊り屋台では、各町の選り抜きの町娘達による美しいきらびやかな衣装での踊りが演じられました。その中でも、振り袖の娘姿に扮した辰巳屋惣兵衛の踊りは、人々を喜ばせ、派手で茶目っ気の多い江戸町人の気質を十二分に発揮し、大評判だったということです。

文政4年(1821年)10月28日に89歳で天寿を全うした折に、江戸市民は惣兵衛の人柄を惜しみ、功績を称えて、祭りの賑わいを以て葬送しました。小石川の慈照院にある墓石には、娘姿で踊る惣兵衛の姿が彫られています。辰巳屋惣兵衛と親交のあった江戸の文人、太田蜀山人は「お祭りと神楽の堂に辰巳屋の木枯娘や花咲爺」とその様子を詠んでいます。

我が国の伝統文化の大きな根底は、この時期の舞踊文化によって勢いをつけたものでございます。辰巳屋惣兵衛の目指していたものは、万人が楽しむことができ、親しく習得し得る舞踊、そして幸福と健康に結びつくものでした。当時の江戸町人が辰巳屋惣兵衛の踊りを心から愛し、共に楽しく踊っていた様子が目に浮かぶようです。しかし残念ながら、辰巳流は二代目で途絶えてしまいました。